差別が構造の問題であることのわかりやすい例示

私が非常に大きな影響を受けた人に、小山エミさんという人がいる。Macska のハンドルでも知られるフェミニストで、非常に優れたリベラリストだ。

実は、この人に影響を受けたと書くと必ず本人から「どこが影響されてるのかわからない」とか「私と全然ちがうのに」とかイヤミを言われるのであまり公言したくはないのだが、私本人が影響を受けたと主観的に思っているのだからしかたがない。私がジョン・ロールズを知ったのもこの人がロールジアンだったからで、私の中のリベラルな考え方の基本部分を構成する重要な要素だと言っていいと思う。

しかしこの人の本業であるフェミニズムの分野では、とくに男女共同参画法下のジェンダーフリー政策について私と小山さんは意見がまるで対立していて、かつてネットの掲示板でえんえんケンカしたことがあった。したがって彼女は私のことを「そこらへんによくいるバックラッシュ」としか認識しておらず、イヤミを言われるぐらいはしょうがないのだが、実は彼女は外山恒一に大きな影響を受けており、今年はしばき隊が「外山恒一賞」を受賞したので、まあもしかしたら間接的に影響もあるのかもね、というところに落ち着いたようである。ということで、あきらめてもらうしかない。

さて、その小山さんがネット上に書いたいろいろなもので、とくに差別問題に関して私に「アハ体験」をもたらしてくれたのは、彼女が示した差別構造のわかりやすい例示だった。これを読んで、それまでの差別に関する考え方が180度変わった、と言ってもいい。まさに「なるほど!」であった。これはネット掲示板での会話のやりとりの中で示されたもので、その掲示板はもうないのでログがないのだが、もしかしたら彼女のブログにも同じような話がどこかにあるのかもしれない。いや、まあ基本的な話なのでたぶん似たような説明はあるんじゃないかと思う。

それは、差別をどう定義するかという話の中で示されたもので、差別は個人と個人の関係によって起こるものではなく、第一義的には社会の構造によって起こるものである、ということを、駅の構造と身体障碍者の例で説明したものだった。

①ある車椅子の人が、いつもある駅を利用している。
②その駅にはエレベーターもエスカレーターもない。
③駅に来ると、親切な周りの乗客がいつも快く階上のプラットフォームまでその人を運んでくれる。

そこにはどんな差別があるか。

まず、身体障碍者であろうが健常者であろうが、駅を利用する権利は平等にある。しかし駅にはエレベーターがないため、この人は1人では駅を利用することができない。これは身体障碍者が差別されている状態である。建造物のバリアフリーやユニバーサルデザインというのはこういう考え方にもとづいていて、要するにこの世の中が健常者を前提にデザインされているので、身体に障害を持つ少数の人々(マイノリティ)が常に一方的に不便を強いられることになる。これが、差別の本質なのだ、ということである。

さてこのとき、③の親切な人々はどういう役割を果たしているのだろうか。

私はそれまで、③の人々がいることによってその差別状態が解消するのだと思っていた。ところが小山さんの説明によると、③の人々は差別を解消するどころかむしろ温存し、差別に加担しているのだ、ということであった。これは目ウロコの指摘だった。

なぜそうなるかといえば、③の親切な人々がいることによって、駅はいつまでもエレベーターをつけなくてもよくなり、構造を変更するコストを負わなくてすむからである。そのコストは、たまたまその場にいた親切な人々によって負担され、車椅子の人本人は受益者として常にその人たち個人に感謝し、あるいは恐縮していなければならない。これでは、場合によっては電車で出かけるのがおっくうになるかもしれない。

これが駅員だった場合は駅側の負担とも言えなくもないが、アカの他人の手をわずらわせるということで車椅子の人の心理的負担は消えないだろう。駅を利用する健常者で階段をのぼるのにいちいち階段をつくった人に感謝する人がいないのと同じく、本来ならば誰にも気兼ねすることなくひとりで駅を利用できるのが当たり前の、平等な状態なのだ。

もちろん、③の人たちの存在によって結果的に差別構造が温存されるからといって、親切心から手助けする人を「差別の加担者だ!」と糾弾する必要などどこにもないが(なぜならその親切な人々の行動もまた、駅の構造がもたらした結果だからである。もちろん小山さんも糾弾の文脈で「加担」と言っているのではない)、差別状態をなくす運動として「困った人を見かけたら手助けしましょう」と人々の善意の強化を社会に啓蒙するのは、本質的な解決とは関係がないということだ。

この場合、社会運動としては「エレベーターをつけよ」と、構造そのものの変更を目指すのが正しいのである。エレベーターがつくことによって、車椅子の人は誰の善意にも頼ることなく駅を利用することができ、ほかの利用者も特段善人であることを求められることなく、車椅子の利用者がいても知らん顔して駅を利用できるのである。健常者同士ではお互いに他人として知らん顔して駅を利用しているのだから、これが平等な状態である。

差別の問題が目の前にあるときに、個々人の意識の向上を目指すことはもちろん重要だが、それだけでは足りない。というか、場合によっては不要ですらある。むしろこの例では、根本的な差別構造のほうに適切な変更を加えさえすれば、個々人の意識がどうであろうが「ある特定のマイノリティが常に一方的に不利」という差別状態は解消されるのである。

もちろんこれは単純化されたモデルであり、実際のさまざまな差別は個別にもっと複雑な状況や事情を抱えているが、ひとまずは原則として理解すべきものだと思う。この、「ある特定の少数の人々が常に一方的に不利になる」のが差別の正体で、これはマジョリティ側に悪意があろうとなかろうと成立するものだ。エレベーターなしの駅をつくった人も、それに異を唱えなかった多くの利用者も、別に身体障碍者を困らせてやろうと考えていたわけではない。単に少数者の状態に目が行かなかっただけである。

もうひとつ、小山さんの例示でわかりやすかったのは「巨人ファンお断りの店」の話だ。

ある店は阪神ファンが経営しており、基本的に客も阪神ファンだが、巨人以外なら他のチームのファンも入ることができる。これは「巨人ファン差別」になるか?

この場合、阪神ファンにくらべて巨人ファンがマイノリティということはありえず、その店以外ならいくらでも利用できるし、場合によっては阪神ファンお断りの店に行くこともできる。それ以前に、そもそも巨人ファンであることで社会的に不利な状況に置かれているなどということもありえないので、これは基本的に差別の問題とは関係がない、という話だった。単に趣味嗜好の違いと、自分の店を自分の好きなように経営する自由の問題である。

「入店拒否」問題については、「銭湯で外国入店拒否  」「神楽坂のたまねぎやで反レイシズム・カウンター入店拒否」のように、さまざまなパターンが考えられるが、いずれも「ある属性を理由に拒否している」というだけではそれが差別であるとは言えない。その属性が社会構造の中でどのような位置づけをされているか、が重要なのだ。

「レイシスト差別」「ネトウヨ差別」はもちろんのこと、在特会関係者が公に主張している「日本人差別」が定義上成立しないのは、こうした理由からである。